パスト・フーチュラマ 20世紀モダーン・エイジの欲望とかたち
本書に書かれていることの多くは、「過去と現在」「過去の未来」に関することである。あらかじめ言っておけば、「過ぎ去った未来」(パスト・フューチャー)の記述はあっても、未来予測はない。しかし、過ぎ去ったものへのノスタルジーだけでもなければ、過去へのデータ収集でもないつもりだ。未来を生成しようとして過去の遺物となっていったもの、あるいは現在進行形のときには見えずに、過去という時間軸に押し込められて、はっきりと見通せるようになったもの。そうしたものが本書の対象である。
それはデザインであり、ファッションであり、映画であり、音楽であり、科学であり、建築であり、そしてまた肉体である・・・デザインにしてもモードにしても、実際のストリートから沸き上がってくる現場を知らずして、デザイン論なり、身体論を論じてもどれほどのリアリティーがあるだろう?(少なくとも二〇代の頃の僕は、オッサンたちが訳知りに無意味な論評をしているようにしか思えなかった)
各章のテーマともなるクルマ、コンピューター、モード、60Sデザイン、サイケデリック、あるいはフェティッシュな身体といったものは、それぞれ僕自身が思い入れなり、趣味としてきた部分である。ヴェスパは持たなかったがヴィンテージ・バイクを集めた一時期もあった。8ビットのコンピューターは30台ほど集めたこともある。その魅力の多くは、草創期の多様なデザインと過去の遺物となってしまった廃虚感だった。
八〇年代の「ポストモダン論争」に入れ込んでいた人にはわかりにくいかもしれないが、モダニズム批判をしながら過去のモダニズム造形に肩入れして収集してしまうのも、この高度消費社会がつくりだしたひとつの「趣味」というしかない・・・そうした意味でも、本書の視点は複眼的というよりも「ブレ」を持たずにはいられない。モダニズムとアンチ・モダニズムへのブレ。それが現代のリアリティーだとも思っている。テクノとヒップホップのような一見、対極のように聴こえるものが、コンピューターとサンプリング・マシーンによって交差してしまうのと同じことだ。マシーンがあらゆる論を凌駕してしまう一瞬。批評が成り立ちにくいのもむべなるかな、だ・・
著者:長澤均
出版社:フィルムアート社
サイズ:A5
ページ数:253
発行年:2000.09
